酪農事典

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乳牛と牛乳の性質
乳牛の一生 日本の乳牛 乳牛の習性 乳牛の能力 牛乳はきゅうりよりも固い?
牧場と牛の飼育
飼育方法と牛舎 搾乳機の仕組み 搾乳方法 色々な餌
安房の酪農―はじまりから江戸時代
嶺岡牧のはじまり 房総里見氏の断絶 嶺岡牧における主な作業 徳川吉宗と白牛 白牛酪の製造・販売
安房の酪農―明治初~中期
千葉県の誕生と畜産行政 牛乳販売の始まり 煉乳・製酪事業の始まり 貸し牛と預かり牛 ホルスタイン種「嶺雪号」 千葉酪農の基礎を築いた人々 明治文学と酪農 明治文学に見る東京の牧場 嶺岡牧場の歩み
安房の酪農―明治後期~大正
ミルクロード ミルクホールの賑わい 夢多き英雄たち―牛乳産業の活況 房州ホルスタインの名声
安房の酪農―昭和以降
牛乳営業取締規則の改正と都市近郊の専業酪農 日本最初の人工授精 農乳の排除事件 昭和11年(1936年)の乳牛頭数 大手乳業メーカーの移転奨励 終戦直後の千葉酪農 全国3位の酪農県へ 日本の乳牛改良と房州ホルスタイン 酪農の現状
千葉県の酪農技術革新史
はじめに 振興拡大期(昭和35年~45年) 発展・転換期(昭和46年~55年) 需給調整期(昭和56年~平成7年) 酪農発達史
酪農につくした獣医師の偉業
牛の胎児体内切断術―可世木芳蔵 牛の金物病について―久保又次
畜産総合研究センターについて
畜産総合研究センターについて 畜産総合研究センター(嶺岡乳牛研究所) 畜産総合研究センター(乳牛育成牧場) 中央家畜保健衛生所

安房の酪農―はじまりから江戸時代

嶺岡牧のはじまり

房総里見氏は、戦国乱世の時代に、10代170年にわたって安房を支配しました。その里見氏が軍馬を育成するために作ったのが「嶺岡牧」です。

徳川幕府は、慶長19年(1614)里見氏の領地を没収しましたが、嶺岡牧を下総国小金牧・佐倉牧(いずれも千葉県)、駿河国愛鷹牧(静岡県)とともに幕府直轄の牧としました。徳川幕府も嶺岡牧に馬を飼育し、多いときは700頭もいたとの記録が残っています。

嶺岡乳牛研究所や酪農のさとは、むかしの嶺岡牧の一部にあるのです。

上の図「房州嶺岡山野絵図」(石井守氏所蔵、享保10年=1725)では、嶺岡牧全体の規模と牧の御用を勤める野付の村々(丸印)が描かれています。

嶺岡牧の広さ

嶺岡牧の広さは、1760町余(1760ha余)、周囲17里(68km)という広大さでした。この広い区域を東上牧、束下牧、西一牧、西二牧及び柱木牧の五つ(嶺岡五牧)に区分し、管理をしていました。

亨保10年(1725)ころには、馬が約6000頭、和牛が約120頭くらいが放牧されていました。

房総里見氏の断絶

10代の里見忠義は、一時徳川幕府に重んじられましたが、領内の政治が乱れたうえ、徳川幕府が策した外様大名圧迫の犠牲になり、領地を没収されて今の鳥取県倉吉市に移され、館山城も壊されました。

元和11年(1625)忠義が病死したため里見氏は断絶しました。

徳川幕府による嶺岡牧の経営

慶長19年(1614)幕府直轄地となった嶺岡牧ですが、その後100年間は積極的な経営がなされませんでした。幕府が積極的な経営に当たるようになったのは、文武の奨励と産業振興に努めた八代将軍吉宗の亨保年間(1716~36)からです。

亨保6年野馬奉行に嶺岡牧を検分させ、次の年から南部藩や仙台藩など国内の産地から種馬を買い入れ、放牧して馬の改良に乗り出しまた。さらに亨保11年(1726)オランダから将軍に献上されたペルシャ産の雄馬1頭を放牧しましたが、この時初めて外国の馬が日本の馬の改良に使われました。

「野馬捕図」(川島関山画・川島亥良氏蔵)

この野馬捕獲の図は、川島関山画伯(1862~1941)が、捕馬風景として描いたもので、画伯の孫にあたる川島亥良氏(八街町)に、写真提供していただいた貴重な資料です。

下総台地の広大な牧を自由奔放に行動する野馬を、四方土手で囲まれたおよそ1km2の広さを有する鳥觜とよばれる地に誘導し、木戸を閉鎖し、捕馬図にみられるように囲いを高い堤で築いた「捕込」という捕捉施設に追込み、頭数調査、烙印、治療等を行ないました。その中で優れた馬は幕府が利用し、その他は農民等民間に払い下げました。

野馬捕獲は牧の年中行事として、牧のある村々(野付)はもとより、最寄りの村々からも大勢の人々が見物に集まり、大変勇壮かつ賑やかな催事であったといいます。

嶺岡牧における主な作業

①里上げ・里下げ
馬がけがしたり病気になったときに、牧士や農家に預けて治療することを「里下げ」、回復したら牧に放すことを「里上げ」といいました。

②捕馬
年に一度春に行なわれました。馬取場に勢子が追い込んだ馬を、1人の捕手が長いさおの先に縄の輪をつくり、それを馬の首に引っ掛けると、ほかの1人が2本の前脚を抱いて倒し、すばやく残りの1人が口なわをかませて引立てるというもので、熟練を要する作業でした。

③焼印
捕らえた馬に、嶺岡牧の馬であることを示すため、「飛雀」などの焼印を押しました。

④その他
その他にも牛馬の出入や出産、放牧場の整備、帳簿や報告書の作成などたくさんの作業がありました。

徳川吉宗と白牛

江戸時代の中ごろ(享保13年=1728)8代将軍徳川吉宗はインド産の白牛を3頭輸入し、嶺岡牧で飼育しました。

嶺岡牧ではこの白牛の数を増やすとともに搾った牛乳で「白牛酪」というバターに似た乳製品を作りました。最初は将軍家に献上品として差し出されましたが、数が多くなると日本橋の「玉屋」という店で庶民へも売られるようになりました。

この時始まった「酪農」が現在の酪農や乳業へとつながっていったので、千葉県が日本酪農の発祥の地といわれているのです。

吉宗の先見

徳川吉宗は新進の気性に富み、当時長崎のオランダ人や中国人から外国の文物や学術枝芸・制度などを取り寄せたり学んだりしました。

洋馬の輸入

吉宗は日本の馬と馬術を改良するために、オランダを通じて「洋馬」と「洋式馬術」を輸入しました。
馬の輸入は雄雌合わせて30頭に及んでいますが、馬と一緒に白牛も輸入されたのです。

増えた白牛

吉宗が初めて放牧した白牛は雄1頭、雌2頭の3頭でしたが、嶺岡牧ではこれをもとに数を増やし、64年後の寛政4年(1792)には約70頭までになったといわれています。

白牛酪の製造・販売

寛政5年(1793)幕府は、霞が関の野馬方役所(のまがたやくしょ)に牛小屋を作って嶺岡牧から白牛10頭を取り寄せて飼い、酪製薬所を設けて牛酪の製造を始めました。

最初は、将軍家はへ納めるだけでしたが、一般にも売り出されるようになったのは寛政8年(1796)ごろからで、1匁(3.75g)の値段は400文という高価なものでした。

日本橋の玉屋をはじめ全国14ヵ所の取次所で販売されるようになり、営業的にも成功を収めました。

白牛の輸送

白牛を嶺岡牧から江戸まで連れて行き、江戸で白牛酪を作っていました。
出産間もない母牛と子牛を一緒に江戸に連れて行き、子牛が飲んだ残りを搾乳して白牛酪を製造していました。
江戸で乳が出なくなると嶺岡牧に送り返し代わりに乳の出る白牛を嶺岡牧から連れて行きましたが、往復の両方に「送り状」が出されていました。

白牛酪考

寛政4年(1792)、幕末の町医者桃井桃庵(もものいとうあん)に命じて作らせた本で、嶺岡牧の白牛の由来と白牛酪のすぐれた効能を人々にしらせようとしました。

ふんも薬に!

白牛に「よもぎ」だけを食べさせて飼い、2週間目以降の牛ふんを黒焼きにしたものは「御生薬」と呼ばれ、傷薬として使われました。御生薬は、すべて幕府に納められました。

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