安房の酪農のあゆみ

日本酪農発祥の地は、千葉県南房地域です。そんな安房の酪農のあゆみは日本の酪農の歴史には欠かすことのできない役割を担っています。安房畜協40年の歩み(昭和63年9月発行)より抜粋した内容を掲載します。

もっとくわしく知りたい場合は、本サイトの「酪農辞典」をご覧ください。

酪農発祥の地『嶺岡牧』

酪農発祥の地は、馬の放牧地としてスタートした。 戦国時代(1500年代)には国守里見氏の牧になった。その後江戸幕府が嶺岡牧を直轄する。

8代将軍吉宗は馬の改良に力を入れ外国産の馬を輸入した。また、国民の寿命を延ばすことを目的とし、当時最高の薬餅と考えられていた乳製品である「醍醐」を生産・普及するため白牛3頭を嶺岡牧に導入した。白牛は年々繁殖し、1793年からは搾った牛乳で「醍醐」の名前を変えた白牛酪が作られるようになった。

生キャラメルのような白牛酪は、庶民にも販売されるようになった。このことが日本の酪農のはじまりである。

明治の嶺岡牧場

明治の初め嶺岡牧場は政府の管理下にあった。明治6年に牛疫(牛の伝染病、死亡率が高い)が発生し、268頭いた牛が24頭となり、白牛は全滅してしまった。その後有志により設立された嶺岡牧社は、南部種雌牛百数十頭など牛馬を購入し、繁殖・改良を進め数を増やした。

明治22年には嶺岡畜産株式会社が発足、米より短角種50頭及びホルスタイン種雌雄2頭を輸入した。これが安房におけるホルスタイン種輸入の発端となった。

馬は年々減少し、大井地区の愛宕山麓に牛舎を建設し、本社を移し乳牛飼育へ乗り出した。現在の嶺岡乳牛研究所の位置である。

明治44年、嶺岡畜産株式会社は解散した。県は寄付された30町歩と施設一切を用いて、千葉県種畜場嶺岡分場を発足した。

牛種の変遷

安房に於ける牛種は最初は南部系の和種であった。

明治22年嶺岡畜産(株)が短角種50頭とホルスタイン種雌雄各1頭を輸入した。翌23年には安房種畜組合が同種50頭を輸入した。短角種は非常な勢いで普及し、明治20年代牛種は短角種で統一された形となった。

明治30年代にホルスタインの乳量の多いことが注目され、全盛を誇った短角種から次第にホルスタイン種へ移行していった。

明治30年代後半からホルスタインの純粋種雌牛を導入、繁殖する者が現れた。

明治40年からホルスタイン種の種雄牛が購入され、短角種やその他雑種雌牛に交配されて、明治末期には、ホルスタイン種による乳用化が一層進んだ。東京、横浜、小岩井農場、北海道等より基礎雌牛の導入が活発に行われ、房州乳牛の基礎が作られていった。

畜産組合の結成

明治17年、農業談話会が開催され、畜産の改良発達を期するには牛馬共進会を開くという案が発議されて、翌明治18年に長狭郡大幡村で安房国牛馬共進会が開催された。安房の先人は牛馬をひいて共進会に集まり、会期中に畜産組合の設立がきめられた。

明治20年には安房種畜組合の設立、明治28年には安房畜産会の結成、明治39年には安房郡産牛組合の発足と、畜産の普及と活況にあわせて組織も発展した。新組合の活動は極めて活発に行われて、安房の畜産、酪農の基礎が築かれていった。

明治42年には専任技術員を迎え、病牛の治療、畜牛の鑑定、飼養管理、改良の指導及び講習等に当らせた。まず乳牛の改良方策として郡内の乳牛全体をホルスタイン種及び同系雑種によって統一すること、能力検定を行って優秀牛の繁殖奨励と劣等牛を淘汰すること、組合によって優良な種雄牛の増加を図ることであった。

ホルスタイン種への牛種統一と、ホルスタイン種の増殖、改良が急速に行われ、明治44年には僅か587頭であった乳牛頭数は、大正5年には4,250頭、大正8年には7,260頭と短期間のうちに驚くべき増加となり、安房郡は大正中期に早くも日本で最も盛んな乳牛地帯となったのである。

製乳事業の勃興

明治12年に東京築地で牛乳店を開いたのをはじめとして、早くから東京へ出て牛乳販売業を開始した。

明治26年頃には館山から東京へ生乳輸送もはじめられた。また同年、安房煉乳所を設立したのが安房に於ける煉乳事業のはじまりである。その後も大正初めまで各地に小工場が建てられたが、小規模と技術が未熟なため苦難の連続で、煉乳・製酪工場は興亡を繰り返した。

大正時代に入り、乳牛の頭数、乳の量共に急速に増加し、需要の増大と機械の急速な発達もあって、安房の製乳界は一新した。最新設備の工場と強力な資本による会社組織の煉乳会社が設立された(明治乳業(株)の前身となる明治製菓の製乳事業は安房からはじまり、後に東京、東北、北海道へと発展していった)。

嶺岡種畜場

乳牛改良計画に基いて第1号は大正2年3月にアイデアルがオランダより輸入され、続いて2頭輸入された。この3頭の輸入牛を主力とし種付を行い、大正初期の乳牛改良に貢献した。

とりわけアイデアルは10余年にわたり供用されて、生産仔牛は550余頭に達し、娘牛の能力は非常な向上を示し、2世種雄牛も数多く供用されて子孫を残した。

大正8年、房州に日本一の種雄牛を輸入したいと念じて、安房畜牛改良会を結成し、県の半額負担などを得て、初めてのアメリカ産の種雄牛を輸入した。本牛は資質優秀で体型は大きく優美で、供用年数8年、生産仔牛は517頭に達し、種雄牛も数多く、優秀血液をあまねく郡内に伝えて酪農史上不滅の光を輝かせた。

続いて、大正13年に1頭、昭和2年に1頭とつぎつぎに日本のホルスタイン史上に残る名種雄牛が嶺岡種畜場に輸入され、嶺岡は黄金時代をむかえたのである。

大正中期 安房は一大乳牛地帯として成立

安房郡産牛組合(大正4年に安房郡畜牛畜産組合と改称)の組合有種雄牛政策により、ホルスタイン種への統一が進んだ。明治45年全国にさきがけて開始された組合検定事業も、大正7年には512頭が受検するほど普及した。

乳製品事業も大工場に統合されて牛乳の販路も安定し、大正8年には安房郡は乳牛頭数が7,000頭を越えた、一大乳牛地帯となった。ここに安房酪農の基礎が確立されたと言えるであろう。

嶺岡牧場に始まり、明治時代には家産を投じての牛の導入、初めての外国からの輸入、何回も失敗を重ねた煉乳事業への挑戦、東京への牛乳輸送の試み、組合の結成等安房酪農百年史を見ると、一つ一つの歴史が畜産発展への情熱をかけた壮大なドラマである。

安房の先賢がパイオニアとして明治時代の長い期間にわたり、苦難の道を歩み、努力を積み重ねた結晶が明治末期から大正初期に大きく開花して安房酪農の急速な発展につながったと言えるであろう。

乳牛改良と共進会

大正中期以後安房郡では全国的に稀に見る高度な乳牛改良が行われるようになった。改良初期のアイデアル、他2頭に次いで大正末期から昭和初期にかけて、嶺岡種畜場には日本の乳牛改良史上に残る名種雄牛が次々と輸入された。

民間へも多くの名種雄牛が輸入されて、優秀な娘牛、息牛を生産した。これら種雄牛によって大正中期以後安房郡に於ける乳牛改良は一層拍車がかかり、組合検定でも日量2斗を越える牛が続出し、最高一日乳量は大正10年には2斗570、大正11年には2斗744、昭和3年には3斗313の驚異的な記録を樹立するに至った。明治45年開始1年目には僅か7升4合にすぎなかった検定牛の平均一日乳量も、 昭和4年には2斗の大台を越えたのである。

前述の名種雄牛の息娘牛は、体型能力とも共進会で大いに活躍した。安房のホルスタイン種は当時の日本乳牛界に於いて最高の水準に達したと言っても過言でないであろう。

乳牛販売

乳牛販売は安房郡畜牛畜産組合の開設した吉尾、鴨川、南三原、北条、勝山の5市場を中心に行われた。

百年史では大正9年北条町で開催された千葉県共進会には他府県からも参観者が多く、共進会を機会に他府県からの購買も相次いだと記されており、酪農安房の名も漸く高まって、この頃から全国に乳牛を移出するようになったようである。

共進会に上位入賞した種雄牛候補は他府県から購買され、農林省も優秀牛を買い上げた。いち早く乳牛産地として成立した安房郡では、ホルスタイン純粋牛の繁殖育成によって農家に高収益をもたらした。

牛乳生産と種畜生産の二本立の安房の酪農経営は、その後も長期にわたって繁栄を続け、日本酪農の発展の過程で毎年多くの乳牛を日本各地へ送り出すことになる。北海道にて酪農振興計画が決り牛馬100万頭計画という華々しい出発をした。

大正14年から昭和7、8年頃まで安房から毎年200頭位、 その間に2~3千頭の乳牛が北見、十勝へ移出されて、北見、十勝の基礎になった。当時には満州、朝鮮へも房州牛が移出されたのである。

昭和

このように躍進して戦前の黄金時代をむかえた安房の酪農は昭和12年の乳牛12,000頭、日産乳量300石(56.25t)の最高記録を境として、戦争の激化につれ、飼料、労力、食糧、資材等の逼迫に災いされて漸次凋落の一途をたどり、終戦時には乳牛4,000頭、日産乳量40余石に転落した。

多年酪農振興のために、多大の貢献をして来た安房郡畜牛畜産組合も昭和19年8月戦時統制のため解体させられ、千葉県農業会安房支部畜産課としてその事務が引き継がれたのである。

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